藤村Dの「劇的3時間SHOW」を見る(3)
では続きである。
いよいよゲストの登場間近である。
この「劇的3時間SHOW」では、毎回ゲストを呼んでいる。今回のゲストは「TVに非常に疎い方」だという紹介で会場爆笑。もちろん誰が出てくるのか、みんな知っているのである。
で、すぐに呼ぶのかと思いきや、先ほどの「視聴率」の話を再びし始める。
昨日はキー局の人と朝4時まで飲んでいたそうで、そのときに深夜で人気のある番組がゴールデンタイムにいくことについて、何でゴールデンに行くのか、おかしいよね?というような話をされていたそうである。
その昔、どうでしょうも「ゴールデンスペシャル」を作ったときは、「30時間TV」のような企画もやって、視聴率は「20はあるでしょう」「いやあ、20は行きたいね」みたいな話をしていたのだが、結果は12%。その日の夜のどうでしょうも12%だったそうで、藤村Dは「ゴールデンは作れない」と思ったそうである。
いったい20時台に20%取るってどういうこと?と考えたときに、「クラスの中で、どんな手を使っても人気をとるヤな奴」でないと20は取れない。どこでもいい顔するような奴(人の言うことに対して「面白いねー」とかいう奴)。
テレビを見ている人たちも、20時台はまじめな人。深夜に起きてる奴は「バカ」ばかり(笑)そういう人たちを寝かせない、「お前は寝かせねえぜ!」というのが深夜番組。
だから、視聴率は10%、二桁を取るのを作りたい。ほとんどのTVディレクターは「2桁」なら、案外いつくれるんじゃないか。あくまでも視聴率はひとつの指標であって、それを目的に番組を作ってはいけない。
そんな話の後、ようやくゲストの登場となる。
ちなみに、松任谷正隆さんの時のゲストは「奥さん」だったそうである(会場どよめく)。
嬉野Dが、やはり浴衣で登場。藤村Dが、またビールを持ち出し、また最前列のお客さんにビールを注がせて、藤村&嬉野で乾杯。
嬉野Dは、いきなりこんなことを言う。
「TV詳しくないからねえ」
さらに、TVは5歳のときにやってきて、昭和47年には見終わったとのこと。その期間わずか8年である。嬉野Dいわく、12,3歳まではTVは面白かったそうである。
さらに嬉野Dの話は続く。
昔は「かくし芸大会」の放送が2時間枠になっただけでも興奮した。それくらい娯楽が薄く、選択肢の幅が狭かった。
嬉野Dの友人が、海外青年協力隊の仕事で、パプアニューギニアでTV番組の制作を現地の人に教えたそうなのだが、番組自体はちっとも面白くないけれども、みんなが見てる。
藤村Dは、そんな嬉野Dの話をタバコを吸いながら聞いている。
そして、嬉野Dに対してこんなことを言う。
「最近あなた仕事してないでしょ!」(会場爆笑)
藤村Dいわく、嬉野Dはたまに編集室をのぞいて「終わらないんですか」と聞いてくる。「もう少しですよ」と藤村Dは答えるのだが、嬉野Dは藤村Dの車で家まで送ってもらいたいだけだという。さらに公式サイトの「日記」も書いてないことがあるという。でも、藤村Dはそんな嬉野Dのような人がいることに安心するし、まともな感覚でいられる。だから嬉野Dはいなきゃダメだと。
話はまた変わり、藤村Dの家にある薪ストーブの話になる。
夏の間にジョギング中に落ちている木を拾って薪をためているそうで、冬になって、火をくべると、ずっと火を見ているのだが、まったく飽きないで時間が過ぎてしまう。そんな時間は心も豊かになるという(嬉野D「いいこと言うじゃねーか!」)。
そこで、藤村Dはこんなことを言い出す。
自分がHTBの社長になったら、夜(11時15分ネット番組終了後)は焚き火の映像を流すと。たまに沖縄の海の映像とか、そういう放送を週に1、2日はやりたいそうだ。
さらに、8月はTVをやめてしまえばいいと思っているそうで、これは実際に会社に提案したことがあるそうである。
そんな話から、「水曜どうでしょう」を作るにあたってどういうことをやってきたのかという話をし始める。最も力を入れたことというのは、「仕事の環境作り」だという。
彼らにすれば、番組を毎週作るというのはありえない、というか作れない。だから、1回ロケをしたら何週続けられるかを考えながら制作スケジュールを組んでいたそうだが、それでもスケジュールは破綻しそうになる。
そのとき、「大相撲ダイジェスト」の放送があり、1ヵ月半の間に2週間は放送を休めることになり、何とか番組を作っていくことが出来たそうである。その間、番組を作っていたのは藤村Dと嬉野Dの二人だけ。ADを使うシステムもわからず、お互いを「先生」と呼びながら仕事を進めていたとのこと。
しかし、2年後には「大相撲ダイジェスト」がなくなってしまった。だからといって、1ヵ月半に2週の休みというのは、もう崩せなくなっており、「2週間休みが無いと番組が作れません!」と力強く、はっきりと言ったところ、「そうなのか」ということになり、その2週間を穴埋めするために作られたのが「どうでしょうリターンズ」である。放送当時は、企画の途中であっても1ヵ月半経つと、「リターンズ」が2週挟まる形になり、見ている人はかなり混乱したそうである。
こんな放送スタイルはTVの常識ではありえないのだが、この2週間の休みがあることで、制作のスケジュールを立て直すことができるし、スケジュールがうまくいけば時間に余裕が生まれる。その時間を使って、昔のものを見直してみると、変えたい部分や面白い部分が見えてきて、たとえばテロップを凝ったものにしたいという考えが生まれる。
そんなときは、藤村Dが嬉野Dに内容を伝えて、それを嬉野Dがテロップの制作会社(ビジービーさん)に伝え、書いてもらう。それを藤村Dに見せて、ダメだしされて、また嬉野Dがビジービーさんに伝えて、再度書いてもらう・・・そんな作業を繰り返していたそうである。
「仕事の環境作り」の話では、労働組合の委員長をしていたときに、「8月は休みにしよう」という提案をした話をされていた。
7月8月というのは北海道はいい季節で、編集作業なんてしたくない。逆に冬は寒いので外には出て行きたくないし、いくらでも編集作業が出来る。だから、冬働いて夏休めばいい、そして休みの間にたとえば1日中テレビを見ていれば、つまらないところや面白いところが見えるし、1ヶ月の休みは無駄ではない。そんなことを取締役に言ったところ、「面白いね」といわれたそうなのだが(経営サイドからすれば、残業などが無くなるし、番組を作らなければコストがかからないのでメリットがある)、組合員は「1ヶ月も番組を休んだら視聴者が離れてしまう」と反対されたとのこと。
そのとき藤村Dはこう思ったそうである。
「うち、2年もやってねえ」
でも、視聴者は離れていないから、離れる理由がわからないと。
嬉野Dも、近所のスーパーの饅頭屋のお話で、とても美味しい肉饅頭を売っていて、よく買うそうなのだが、ある日突然旅に出てお店を休んでしまい、しばらくするとまた戻ってくる。戻ってきたら、またそのお店に肉饅頭を買いに行ってしまうというお話をされていた。
こんなこともおっしゃっていた。
「モノを作るやつは休まなきゃいけない。疲れていたら出来ない」
これは、本当にそのとおりだと思う。難しいことだけれども「休むための努力」というのは惜しんではならない。
この後、ドラマ「歓喜の歌」についての話をされるのだが・・・それはまた別の記事にて。
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