阪神・淡路大震災から17年・テレビを見ながら思うこと
今年もこの日がやってきた。1月17日、阪神・淡路大震災発生の日である。
毎年、何を書こうか迷い、結局書かずに終わってしまうことも多い。
でも今年はどうしても書かねばならないと思っていた。
それは、やはり昨年の東日本大震災があったからにほかならない。
2つの大きな震災、一方は「復興を遂げた」といわれ、もう一方は「復興はこれから」といわれている。
でも、本当にそうなのだろうか。
神戸の町は、新しい建物が立ち並び、確かに美しくみえる。ただ、だからといって、あのときの記憶は決して消えることはないし、消してはいけないし、語り継いでいかねばならない。
そして、もうひとつ。市内各所で実行された「復興計画」がうまくいっていないところがあるという現実。
特に「副都心化する」という名の下に高層ビルが立ち並んだ長田エリアは、空き店舗が目立ち、苦しんでいる商店主が多い。テレビのニュース番組でも、そういった視点で17年目の阪神・淡路大震災を捉えているところが多かったように思う。
一方で、神戸の17年間の経験を、東北の復興を支えるために生かそうとしている人たちがいる。
そこに視点を当てたのが、NHKスペシャル「阪神・淡路大震災17年 東北を支えたい~“後悔”を胸に」であった。
番組内では、3つの事例を取り上げていた。
1つ目は、「被災者と行政との信頼関係」について。
長田の再開発もそうだが、阪神・淡路大震災では、復興を急ぐあまり、行政が復興計画をわずか2ヶ月で作り上げ、住民の意見を取り入れられないまま、進んでしまったところが多かった。
行政と住民の間の信頼関係は一度崩れると、その後に計画についての理解を求めるのは困難になる。
旧北淡町(現・淡路市)では、復興計画を2ヶ月で作ったものの、結局住民の説得や調整に時間がかかり、復興計画が完了するまで10数年、町を去った人も多く、賑わいも失われてしまう結果にもなった。
宮城県亘理町に派遣された淡路市(旧北淡町)の職員は、その苦い経験を活かし、住民と信頼関係を構築して街づくりを進めようとしている。
津波の被害を受けた荒浜地区の復興計画案で、町は防潮堤を作って、内陸部に集団移転させるとしたが、住民は浸水した地域には住みたくない、もっと別の場所に集団移転したいという意見が出る。
今住民と向き合わなければ17年前と同じことになる。そこで「復興カルテ」を作り、住民一人一人の事情を聞き取りすることにした。
しかし有識者の復興会議では、計画が遅い、とにかく早く移転先を決めるように求められる。しかし、町として移転先はここなんですと示すことは住人の混乱を招くと譲らず、住民の意向を聞いてから移転先を決めることになった。
仮設住宅に行き、一人一人の話を聴きながら「復興カルテ」に書き留める。地道な作業だが、住民にとっては「意見を聞いてくれた」ということで信頼感が生まれ、町にとっては、住民の意向がきちんと見えてくる。その結果、荒浜地区以外の場所での移転先の検討をはじめた町。町の人たちと一緒にがんばっていきたいと職員の方は語っていた。
2つ目は、復興のスピードについて。
阪神淡路大震災では、行政の対応が遅れて再建の意欲が薄れた、スピードが速くないと再建が難しくなる。ただし、被災者側のスピードにあわせての話であって、行政のスピードだけを言っているのではない。
大正筋商店街の副理事長が南三陸町の商店主たちの元を訪れる。商店街の会合を通じ、7年前から交流を続けているという。会合時の写真を持っていってみんなで見る。そこには亡くなった方の姿もある。
震災前の大正筋商店街はものすごい賑わいがあった、震災でほとんどの店が消失。震災から5ヵ月後に仮設商店街をオープン。被災者の貴重な交流の場となった。
一方で行政は高層住宅や商業ビルを中心とした再開発計画をつくる。5年で作るはずが、調整に手間取り、その間に住民がいなくなり、店を続ける力がなくなり、店を閉めていった。もっと早くできていたら、今よりはいい町ができていたと副理事長は語る。
南三陸町の商店主たちに仮設商店街の模型を持っていくと、すぐにでも作りたいが、町が住宅や商店街の具体的な再建場所を提示できていない。そこで仮設商店街の造れる場所を探す。内陸部に見つけたが、点在する仮設住宅とは距離がある。集客は可能なのか・・・そこで副理事長は、商店主の集まりで「やり方次第で集客できる」と伝える。たとえば仮設住宅を巡回するバスを走らせる(実際に神戸でもやったことがある)。
そして、商店主たちは具体的な計画に取り掛かった。店はコンテナを選び、巡回バスの運行も計画。
しかし、大きな問題が持ち上がる。商店主の申請していた補助金(再建費用の4分の3)が不採択!
仮設施設であることから、町の発展につながらないのが理由。たとえ仮設であっても再建しなければ町がさびれてしまうという商店主たちの思いは届かなかった。
窮地に立たされる商店主。開店費用の見積もりに集まる商店主たち。必要となる費用は、蓄えを超えていた。このままでは店が再建できないのではないか・・・不安が募る。
副理事長は言う。阪神・淡路大震災でも補助金は出ず、今も苦しい経営が続く。そのことがあってできた補助金制度だと思っていたのに、仮設だからダメというのは16年前と何も変わってない。
12月中旬、経費を削って仮設の商店街を作ると決めた!副理事長は神戸で募金を集めて町工場で作った照明(太陽光発電付)を寄贈する。1日でも早く待ちの賑わいを取り戻したい、商店主の願いである。被災地の復興に商店街は大きな役割を果たすはずだ。
3つ目は、被災者と地域のつながりの大切さについて。
阪神・淡路大震災後、多くの災害復興公営住宅が建てられた。一人住まいの高齢者、資金のない人は町にとどまることができず、こうした住宅に移り住み、地域とのつながりが断たれてしまった。
神戸の一級建築士が、気仙沼市で住まいを失った人へ、どうすれば地域の人と一緒に暮らせるかをアドバイスする説明会を行った。阪神・淡路大震災の時に、ボランティアで住宅再建の相談にのったとき、資金不足でもとの地域に戻れない人がたくさんいた。このとき提案したのは「共同再建」。
行政から補助をもらって、共同住宅を作る。顔なじみとの暮らしを選んだ。
でも、共同再建が実現したのはほんの一部。多くの人が町を離れてしまった。相談の仕方もわからず、自分で判断しなければならなかった。阪神淡路大震災の8ヵ月後に、兵庫県では被災した住民を支援する専門家を派遣できる仕組みができた。
しかし、東日本大震災の自治体ではまだそういう仕組みはない。そこで兵庫県の助成制度を活用して、支援が必要な住民を探すことからはじめた。
被災した住民たちは、同じ地区の住民たちと暮らしたい。でも住民だけでは限界があると考えていた。気仙沼市の示す集団移転事業では、土地の取得造成費用は行政負担だが、住宅の建設は自己負担。高齢のため、ローンが組めない、再建はあきらめている人がいる。でも住み慣れたところは離れたくないのが本音。みんなで支えながら暮らしてきた。今、大切にしてきた地域のつながりが断たれようとしている。
そこで、阪神淡路大震災の経験をいかす。戸建で割安な共同住宅、一人当たりの面積を狭くして、行政からの補助も得て、自己負担を少なくすることを提案。集団移転先にこれを建てることができれば、お年寄りも一緒に住めて地域のつながりを保つことができる。
今支援をしているのは気仙沼市の3つの地区だけ。他の地域でも急ぐ必要があると考えている。そして、こうした制度の必要性をもっと認識して制度を作らなければならない。孤独死や自殺という悲劇を繰り返さないために、自治体と専門家が一体になった制度が求められている。
阪神・淡路大震災を経験したものとして、何か役に立てることはないか、多くの人たちを支えられないか、私たちの経験や後悔を今こそ活かし、復興に役立ててほしい、と締めくくられ、番組は終了。
番組を見ながら「つぶやき」をしていたものを、少し加工しただけなので、わかりにくい文章になってしまったが、とてもよく取材されている番組で、さすがNHK!と思わせてくれる内容であった。
おそらく3月11日にもまた各局で特集番組が組まれるだろう。そのとき、どんな視点で震災を、そして復興を捉えるのか、そこに注目してみたいと思う。
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